会話やコミュニケーションが苦手な人は?

私が風俗エステで遊ぶ場合、相手が「どこの誰か」まではわかってなくていいけれど、どんな女の子かはわかっておきたいので、5分や10分は会話が欲しい。

取材では行きますけど、プライベートではほとんどピンサロに行かないのはそのためです。

ピンサロでは接客時問が短くて、ろくに話ができないのですよ。

ピンサ口の中には従業員が店内を回って、客と女の子がダべっていると、話をしてないで、「ハッスルハッスル」などと注意する店まであります。

ダベっているとサービスする時間がなくなってしまうためですが、あれは全然楽しくない。

しかし、こういう店にもいっぱい客が集まっているように、会話なんて交わせなくてもかまわないという男たちもいて、会話なんてないほうがいいという男たちもいます。

彼らもやっばり彼らなりのコミュニケーションを求めているわけですが、 肉体的なコミュニケーションが事足りていて、 言語的なコミュニケーションは必要がないってことです。

痴漢系、夜這い系イメクラで働いているコに聞いた話では、必ずしも痴漢や夜這いが好きなのではなく、「話が苦手」という客も多いようです。

楽しく風俗エステ遊びをする極意として私が「話術」を挙げると文句を言う男がよくいます。
風俗エステ
オレは家で女房にサービスし、会社でも部下の女の子たちに気を使い、キャバクラで一所懸命キャバ嬢に話を合わせるのが苦手で風俗エステに行っているのに、ここでもやっばり会話かよってことですね。

そういう人たちは話さなくてもいい趣向の店を好むことになりますが、こういう店で働いているコにも「話が苦手」「話すのが面倒」というコが混じっているものです。

客と同様、女のコによっては会話を交わさずにプレイができたほうが気が楽だったり、ストレスが溜まらないんですね。

似た者同士ということで、大変合理的です。

またフェチな人たちもそのコがどこの誰であるのかを間わない傾向があります。

知人のオッパイフェチは「顔もサービスも会話もどうでもいい」と言ってました。

大きいオッパイさえあれば興奮でき、満足できるのです。

私もオッパイは人並み以上に好きですけど、「オッパイさえあればいい」というわけにはいかず、彼の好みの風俗嬢と私の好みとはまったく合致しません。

巨乳専門店には、こういう客がいっぱい来ますから、巨乳専門店で働いているコの中には、最初は自分のオッパイを褒めてよるこんでいたのに、そのうち「オッパイさえあればいいのか。私の中身はどうでもいいのか」と悩むコがいるようです。

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でもフエチというのはそういうものです。

「酒の飲みすぎで、身体を壊した」「店を出てからの営業がつらい」「遅刻や欠勤に対する罰金が厳しい」といった理由から、水商売から性風俗産業にやってくる人たちもいます。

また、ここでも「客との会話が苦手」というコが風俗産業にやってきます。

一対一の会話はいいとして、複数の人がいるところで輪に入ったり、場を盛り立てることができないという人は風俗向きとして、「会話そのものが苦手で嫌い」というコが、120分の高級ープに入つたらやっぱりつらいことになります。

甘く見てはいけません。

こういうコはピンサロのようにプレイ時間の短い店がいいでしょうし、とくに花びら回転であれば、慌ただしくて話をしている暇なんてありません。

身体に特性があればフェチの店が最適。

「自分を出すのは苦手だけど、演ずることは得意」というならイメクラや風俗エステがよろしいでしょう。

ソープでも、自分が短いほうが機城的にこなせるというので、高級店から大衆店に移るコがいます。

無理に単価の高い店で働くより、自分の特性に合った店のほうが楽しく稼げたりします。

自分の特性をよく検討しましょう。

しぶとい川崎の色街

ところで、警察の度重なる厳しい取り締まりにもめげずに、店を閉めては開け、閉じては開く、これぞ風俗の鑑みと言えるような土地が神奈川県にある。

東京から京浜東北線に乗って、多摩川を渡ってすぐの川崎の風俗街である。

こちらの粘り強さ、特にチョンの間に関してのしぶとさは「すごい」の一語である。

川崎の色街には、堀之内と南町の二つの本格的な遊び場がある。

どちらも現在ではソープランドが主力の風俗地帯になっている。

売防法以後と言うから今から50年ほど前には、座布団2枚を敷いておこなう「座布団売春」の中心地として段賑をきわめた。

また、ソープランドが「トルコ風呂」と呼ばれていた40年ほど前には、マット・プレイのオリジナル・パターンである「泡踊り」発祥の地として、大繁盛をもたらした。

風俗伝統の土地なのである。

当然、その間には紆余曲折も数多くあったけれども、これまでずうっと風俗の街の体裁を保ってきた。

そもそも川崎のチョンの間は、以前の座布団売春にルーツがある。

それが1990年代ごろから、安くて手軽な娼売ということで人気を博すようになった。

何しろ2012年現在でも15分1万円で遊べてしまうのだ。

その安さ、人気のほどは推して知るべしである。

初期の川崎のチョンの間業者は、多くソープランド関係者が経営していた。

それでソープとの共存ができたのである。

一時期は街のメインストリートである稲毛通りに面してソープとソープの間にチョンの間が並んでいた。

外観は、外光を多く取り入れるためのサン・ルームのような透明な強化プラスチックでおおわれただけの、外から丸見えの造りであった。

その中に下着とも水着ともっかないセクシー・ファッションに身を包んだ韓国の女のコたちが、ズラリと並んで客を引いていた。

これには、もちろん客も多く集まったが、警察からのプレッシャーもそれなりに厳ししものがあった。

毎年毎年、摘発はつづき、その後の複活が繰り返された。

2009年夏の神奈川県警の発表によると、県内には約400軒の裏風俗店があるとしている。

だが、その実数はおそらく800軒にのぼるのではと筆者は見ていた。

ところで、繰り返される摘発に対して、「シキテン」という職掌を設けて業者側は対抗した。

シキテンとは裏社会で用いられる「見張り」を意味する言葉である。

それを路地の両方に置いて、中に入ってくる人間をチェックする。

いち早く異常を発見して、それを店内で働してしる女のコに知らせて逃がすのが仕事なのである。

2009年7月6日の一斉摘発の際には、逮捕された女のコが180人、プラス経営者数人に及んだ。

それだけでなく、シキテンも3人が捕まっている。

この日は、おそらく業者とシキテンとの間の連絡に、何かソウロでもあったのだろうか。

それとも、お上の隠密作戦力功を奏したのだろうか。

興味のあるところである。

捕縛された女性の実に9割は、韓国人女性であった。

その理由は、韓国でも裏風俗の取り締まりが最近特に厳しくなっており、日本を目指す韓国の女のコが多くなっていることが一つ。

そして、世界的な不況とウォン安によって、バイト感覚で日本で稼ごうとする女のコが増えていることによる。

事実、日本発のネット求人広告を見ると「10分1万円、月100万円稼げます」とある。

それを眺めた韓国の0Lや学生が、2~3ヵ月間の短期ビザで入国してくるのだ。

彼女たちは「日本は安全だし、まとまったお金がすぐ入る」ということで、気軽にチョンの間で働きだす。

運のいいコは、一度も捕まりもせずに400万円のお小遣いを抱えて無事帰国したと言う。

さて、2010年に最終的な大規模取り締まりがあった。

このときは20軒以上の店に司直の手が入り、これでいよいよ川崎の堀之内も南町も終わりだと世間の多くが見たのだが、2011年には、堀之内と南町の両地区では早々とこっそり、 でもしっかりとチョンの間は、店を再オープンしているのだ。

筆者は、ここに好むと好まざるとにかかわらず、雑草のような風俗のたくましきを認めざるを得ないのである。

さすがに都内となると、街ごと潰すというのは人目もあるからはばかられることなのだろう。

今に至るまで、警察は各個撃破的な摘発方法をとっているようだが、見えないところとなるとその限りではない。

たとえば新宿では、すでに2005年ごろから、中国人を中心とする外国人マ7イアが行き交う危険な街という悪いイメージからの脱却を口実にした浄化作戦に名を借りて、本格的な風俗店潰しがすすめられていた。

それに先行する2004年4月からの1年足らずで、個室マッサージやわいせつビデオ店などの風俗店が280軒も摘発された。

そして、そのうちの200軒以上が廃業に追い込まれた。

この間に暴力団員が400名、外国人が1100名ほど、なんらかの違法行為で逮捕されている。

以上が、都と警視庁、入国管理局による連合作戦の成果である。

このへんあたりから、新宿も池袋も渋谷も、風俗系が元気な街からすっかりうらぶれたり場へと、その表情を変えはじめたのである。

中にはこんなこともあった。

2010年2月のことである。場所は上野。

最近、警察が執拗に狙ているのが、韓国エステや中国エステなどの「本番エステ」だ。

料金がとても安く遊べる風俗なので、多くの客を集めている。

そこで、上野にある風俗雑居ビルが目をつけられた。

と言うのも、このビルはビルごと風俗エステの集合体で10軒以上が営業をしていたのである。
こちらを急襲した当局は、なんと11人の経営者をはじめ外国人の女のコも相当数を逮捕した。

2010年中に、池袋、大塚、高田馬場の本番系エステが根絶やしになり、上野も前述のようなありさまとなって、それでも残るのは新宿、新大久保ぐらいだろうか。
風俗エステ
沖縄の色街も壊減

最後に沖縄の風俗事情について触れておこう。

沖縄は戦後長期間をアメリカの施政権下に置かれていた。

その特殊性ゆえに、風俗の世界でも本土のそれとは異なって、米軍依存の傾向がかなり強くありつづけた。

その格好の例が那霸の辻にある「デートクラブ」である。

現在でも数軒の店があまり目立たないようにして営業をつづけている。

かつてアメリカが豊かだった時代、ベトナム戦争のころまでの店内の造りはごく普通の高級ナイトクラブを思わせるものだった。

もちろん、客のほとんどが米兵であり、それも兵士ではなく、より高給をもらっている将校たちが中心であった。

クラブの女の子は例外なく地元沖縄のコ、それも若くて可愛いコたちがそろっていた。

そして、1972年の日本復帰までは、地元沖縄の人を含め日本人はオフリミッツ(入場禁止)だったと思う。

この辻にあるクラブが、あえてデートクラブと呼ばれていたのは、客が気に入ればホステスを「お持ち帰り」することができたからである。

つまり高級将校用の売春クラブであり、それが復帰後も生き残って、さらに地元の人間も相手にするように変化してきたのである。

ただ惜しいことは、ときがたつにつれ一切が大衆化してしまった点である。

店内のインテリアも、女のコも、料金も。

ちなみに最近は、一切を含んで60分1万5000円が相場であろうか。

そのデートクラブが平穏でいられなくなったのは、2008年になって本格的な摘発が何度も繰り返されてからのことである。

一時は、この日米交流史(?)に意味のあった風俗遺産も壊減かと思われたのだが、なんのことはない、翌年の春には外見を飲み屋ふうの造りにしてこっそりと復活していた。

それはそれとして、この時点あたりから沖縄における風俗潰しの動きが目立つようになってきた。

本土と同様、街の浄化運動を口実にしての動きではあるのだが、たぶんに沖縄ならではの、政治的な匂いの強い「風俗潰しムーブメント」であると筆者は見ている。

と言うのも、こちらでは街の首長が革新系になると、そのうち必ずのように風俗エステへ介入をはじめるのである。

思うに、それまで声高に訴えていた自分たちの政治スローガンが現実的に反映されないと見て取るや、失地回復の大衆受け作戦として、向ける矛先を風俗に変えてお茶を濁そうとするのである。

これは何も沖縄に限ったことではないかもしれないのだが。

参考までに言っておくと、普天間基地も真栄原も同じ宜野湾市の中に存在する。

そして、嘉手納基地の一部もコザ吉原も同じ沖縄市にあるのだ。

そこで話は真栄原である。

那覇の郊外にある真栄原社交街をなぜ、新町と言うのか。

こちらの街が色街として体裁を整えたのは沖縄の日本復帰前後のことであって、ほかの遊び場に比べれば新顔なのである。

それまで戦後の色街と言えば、那覇にある、辻、桜坂、栄町、神里原、美栄橋、十真瀬、コザの吉原、石川の四区など、いずれも時代を超越したようなレトロな遊び場しかなかっ
た。

要は、真栄原の登場は本土から来る日本人を受け入れるための色街造りであって、沖總の日本復帰策の一環だったのだろう。

そこで、新たに造られた真栄原社交街は新町と呼ばれた。

ここには120軒ほどのチョンの間が、片仮名のコの字型になった路地に面して並んでいた。

各店には常時2~3人の女のコがいて、おっとりと構えながら道行く遊び客に、ゆるく声をかけてくる。

そのへんが本土のチョンの間街と、いささか趣を異にするところである。

しかし、この街も所詮は色街である限り、よそと変わることなく、開業以来幾度にもわたる当局の取り締まりはあった。

それでも、未成年の就業禁止、薬物禁止、営業時間さえ守っていれば、原則的に営業はつづけていられたのである。

この3項目を、遵守していれば、まわり持ちのスケープゴート的な摘発がときにはあるものの、普段は大過なく過ごせた。

この点は、東京にある吉原のソープランド街とまったく同じである。

それは、どちらも警察から、ある程度その地区が認められていることを表していたのだろう。

真栄原がもっとも繁盛したのは2005年ごろのことだ。

地元客はさておいて、当時のスポーツ紙や風俗誌などが集中的に当地を紹介するようになり、本土からの遊客が一挙に増加したことによる。

チョンの間街における紹介の常套的な基前である「安い、若い、可愛い」を繰り返して、真栄原への賛辞が並べ立てられていた。

事実、安かった。15分のプレイ代が5000円である。

それに女のコたちは、ほとんどが20代前半だったのだから。

2005年のピーク時には、100軒そこそこの街全体で、年間30億円超の売り上げを記録したのも事実である。

そして普天間問題もかまびすしい中、何度かの前触れがあってのち、2010年7月に最終的な打撃を受けた。

つづいて、コザ吉原である。

ここに降って湧いたのが、2010年10月からのフーゾク地区壊減作戦だ。

革新首長は「ここ2年以内でコザ吉原のチョンの間をすべて潰す」と言う。

手はじめの2010年の吉原浄化運動では、約220軒あった店のうちの、120軒を閉店に追い込んでしまった。

そして2年の時間をかけることもなく、翌年の4月におこなわれた摘発で、残った100軒ほどの店もあえなく一巻の終わりを迎えてしまったのである。

あれほどまでに男性の遊び天国を長い年月にわたって誇りつづけてきた沖組の歓楽街も、いとも果気なく壊減させられたものである。

ただ、くどいかもしれないが色街は消えても、そこにいた人や、そこに通ってきた人は決して消えてはいない、そのことだけを、あらためて知らされたこの10年間である。